適材適所。
その場所にはその場所の。
その建物にはその建物の。
その人にはその人の。
それぞれにはそれぞれのしっくりくる役目がある。
他の何ものにも代えの利かない。
僕の身近なもので言うと、甲子園球場。
プロ野球の阪神タイガースのホームグラウンドであるのと同時に、高校野球の春と夏の全国大会の舞台になっている。
多くの人が熱狂する阪神タイガースという球団。
多くの人が熱狂する高校野球の全国大会。
多くの球団が本拠地を移している昨今。
阪神タイガースは80年以上、高校野球は90年以上甲子園球場を使っているのです。
もちろん別の場所でも野球は出来ますし、甲子園球場が無くなっても球団が無くなるわけではないので阪神タイガースは残ります。
高校野球の全国大会も甲子園球場じゃなくても他の球場でも出来ます。
夏の猛暑に耐えなくても最近ではドーム球場があるのでより快適に試合は出来るし観る側も快適なはずです。
でもほとんどの人が口を揃えて阪神タイガースは甲子園球場でないとあかんとか、高校野球の全国大会は甲子園球場でないととか言うのです。
なぜでしょうか?
ただそれだけです。
外壁の蔦、黒土、天然芝、広いグラウンド、座席、ベンチ、銀傘。
どれか1つ欠けても甲子園球場じゃなくなる。
それぐらい甲子園球場は甲子園球場であるだけでとてもとても美しいのです。
長くなりましたが、何が言いたかったかと言うと、場所も、建造物も、人もそれぞれにはそれぞれの在り方があって、他の何かになる必要などないということ。
この世界はそれぞれがそれぞれであるだけで素晴らしく、美しいのだということ。
今日も命の貴重な時間を使って最後まで読んでいただきまして本当にありがとうございます!
心の季節や天候。
きっと心にも季節や天候があるのだろう。
地球がそうであるようにヒトの心にも四季があるのだろう。
日本人だから春夏秋冬と四季と表すのがわかりやすいが、四季と言っても実際はグラデーションのように移ろいゆく。
地球さんという1つの生命体と考えれば季節や天候も地球さんの心の中の動きなのかもしれない。
春だからといっていつも穏やかな天気なわけもなく。
夏だからといってずっと暑くて台風が毎日来るわけでもなく。
秋だからといって毎日涼しいわけでもなく。
冬だからといって毎日寒いわけでもなく。
全てはグラデーション。
きっとヒトの心にも季節や天候があって、穏やかな時は周りにモヤがかかっていなくて広範囲を見渡すことが出来る。
穏やかじゃない時はモヤがかかっていて視界が狭くなってしまう。
心が嵐の時は自分のことで精一杯になってしまうし、天気の良い晴天の時は一緒にお茶でもどうですか?と言いたくなる。
大切なのは天候に左右されないこと。
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違いと間違い。
悩んだ時に出てきがちなこと。
ああ、人とやってること違うから僕はダメなんだとかあの人が出来てることが僕は出来ないからダメなんだとか。
同世代の人が就職して結婚して子供が出来てる。
でも自分は違う。
だから、、
自分と誰かを比べてしまうと陥りがちなのが、勝手に比較しておいてあの人と違うから自分はダメなんだという気持ち。
勝手に比較して勝手に落ち込んで勝手にひねくれている。
違いを受け入れるのってなかなか出来ることではないけど、違いは違いなだけであって間違いではないから。
違うからといってそれがダメなことなんて何もなくて、どちらかと言うと自分が人と違うことを間違いだと認識してしまうことが間違いなわけであって。
人と違うことなんてあって当たり前でそれが間違いなはずがなくて、100人いれば100通りの70億人いれば70億通りの生き方、在り方がある。
これは自分にも言い聞かそうと思うのだけど、違いと間違いは似ているようで全然違う。
違いを認めて受け入れる、そんな風にして生きていきたい。
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文を読む。
ここ最近ようやく文を読めるように戻ってきました。
文と言えども本やらブログやら色々ありますが、比較的短い文なら読めていました。
本でも文章がつらつらと続くタイプの本は読めずにいました。
絵が多い漫画とか絵本なら読めていました。
ここ数年間は原因不明の文字疲れ、文字書けないとかありましたが、ようやく読めた時の書けた時の感覚が戻ってきました。
僕の感覚ですが、これも心の余裕というか隙間が出来てきたからなのかなと思ったりします。
最近身を以て体験することや感じることが本を通じてより深まっていく感覚がします。
本だけじゃなく、日常生活を送る中で起こること出逢う人様々なところで気づきをいただいてます。
本当に有難いなぁって思う瞬間が多いです。
今日も命の貴重な時間を使って最後まで読んでいただきましてありがとうございます!
認められるとか認められたいとか。
承認欲求はとどまることを知らない。
しかし、誰に認められるとか認められたいとか追い求めても意味はない。
意味はないと言うか、虚しくなるだけ。
認められても認められなくてもどっちでも良い。
どっちも良い。
自分が生きる上で誰かに認められるとか認められたいとかを意識し過ぎると苦しくしかならない。
自分の好きや面白い、楽しいこと大切にしたいなぁ。
周りの人が笑顔で自分も笑顔でいるのが1番幸せ。
その為には周りも自分も大切にしないとな。
周りを気にして自分を出さないとか、とてももったいない。
もっと自分を出そう。
後悔しないように。
ほんまはやりたくてやりたくて仕方ないこと。
たくさんあるけど、少しずつやっていこう。
やりたかったらやる。
やりたくなくなったらやらない。
これをやってみる。
究極にシンプルなことを実践していこうと思う。
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気付きはそこらへんに転がっている。
気付きはそこらへんに転がっている。
本当に最近実感している。
自分の意識のアンテナをそちらのほうに向けて広げてみると自然に流れてくる。
なんの変哲も無いモノやコト、ヒト、この世に存在するあらゆるものから受け取ることが出来るんだと。
たった一杯の水からも、一粒のお米からも、親指ぐらいの大きさの石からも、一冊の本からも、友達の何気ない一言からも、、、
挙げればキリがないけれど、とにかく全部。
今の自分が何を求めているか、どんな方向に行きたいか、どうなりたいか。
それにそこらへんに転がっている気付き達は反応して目の前にやってきたりやってこなかったりして教えてくれるのだと思うのです。
だからあらゆるものに感謝の気持ちが溢れてくるし、落ち込むことも減った。
人間の身体って不思議やなぁ。
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背景を感じ取る。
どうしても心に余裕がないと目の前にあるもの、目の前で起こったこと、目先のことに対して直接的に受け取ってしまう。
それもあって怒りや悲しみ、虚しさ、不安、恐怖を過剰に感じてしまうのだろう。
自分の中に少しの余裕があると、起こることやもの、人に対して背景を感じるように出来る。
背景を感じると、ネガティヴな感情よりも感謝や愛といったポジティブな感情が出てくる。
昨日は接客していただいた方に感謝と愛を感じた。
今まで感じることもなかった鉱石に対しても歴史と感謝と愛を感じるようになった。
少し意識するだけでこれだ。
改めてヒトという生き物は凄いんだなと思い知らされた。
ヒトの可能性は無限大。
思考によって無限大の花が開くと良い。
思考によって無限大の花の開花が邪魔されるのは出来るだけ避けたいものだ。
目先のことに囚われるな、真理はその先その奥底その裏側にある。
今日も貴重な命の時間を使って最後まで読んでいただきましてありがとうございます!