なんのためにそれをするのか。
少し前ぐらいから物事の向こう側、見えていることの奥側を想像するようにしています。
目に見えることはすごくシンプルに情報が入ってきて思わずそれに影響されてしまいますが、果たして本当に見えていることだけがすべてなのだろうか。
そう考えたときにぼくの答えは見えないものにこそ本質が眠っているのではないかと思いました。
見えないものと言っても霊的なことやスピリチュアル的なことだけではありません。
相手のことを想像すること、思いやること、先を想像すること。
これらは目に見えないものを感じて読み取っていくことだと思うのです。
上手くやろうとしなくても良いのです。
少し、ほんの少しでいいから何か行動するときや発言するときにぽわっと意識する。
それだけでこの世界はやさしいものになると思う。
考えすぎるのは行動を止めてしまうので、行動とほぼ同時ぐらいに考えるぐらいでもいいのかもしれません。
ぼくはよく考えすぎてしまって、行動することができなかったりするのですが、やはり行動の後には何よりも強烈な学びがあります。
行動と思考。
このふたつを織り交ぜながら、どんどん変容していく自分を楽しむ。
変化を面白がれるって素敵なことだと思います。
人間は変化を恐れるようにできているみたいです。
それは生命を維持するためとも、外敵から身を守るためとも言われています。
でも、今の時代は人間自身が『変化』というものを作り出しています。
そんな中、いつまでも変化を恐れていると逆にストレスを感じたり不調になったりすることもあります。
そこから一歩踏み出すためにも、行動と思考は大事な武器になるのではないかとぼくは思います。
人間が人間たらしめるものは、やはり知性、思考、脳。
それを燻らせずに最大限に生かし、やさしい世界が広がることを切に願っています。
ぼくが芸術の世界に身を置いているのは、高校生の時に初めて拙いながらも作詞をし始めた時に自らの手によって自由に世界を作り出すことが出来ることへの感動がきっかけです。
このことは最近まですっかり忘れていましたが、今は確かにあの頃の感動を思い出すことができます。
思考は自由だ。
その自由な思考から生み出される作品たち。
そこには現実世界のルールもしがらみもなにもない。
そしていつしかぼくは作品を作ることが出来なくなりました。
今となってははっきり原因はわかっていて、現実世界が激しくぼくの中に入り込んできて、自由を奪い続けていたんです。
あんなに自由だった世界がいつの日からか現実世界に支配されて思うようなものが出せなくなってしまった。
それが、ぼくの未熟さなのかなんなのかはわかりませんが。。
あれから数年が経ち、今だに表現の世界に身を置き続けているぼくは、あの頃の感覚を取り戻しつつ、これまでの経験を混ぜこぜにしながら新しい世界を作っていこうと思えるまでになりました。
いつまで続くか、なにをやるかなんかは誰にも想像はつかないけれど、多分ぼくは一生表現の世界に居続けるんだと思います。
そして少しでもやさしい世界が広がるようにぼくの命を使っていきたいと思います。
最後まで見ていただきありがとうございます。